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優しさは平和ボケともとられる

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年 5月15日(金)18時27分0秒
返信・引用
  日本から外国人は出て行ったほうがいい
なぜなら住みにくいから

考えてみると異国の地に骨をうずめるってむずかしいだろ

サヨは外国人労働者に優しいが
外国人労働者の本心はわからないだろう

まずは出稼ぎなのか定住なのかだろ!

後、これだけは言っておく

<命の重さ>

外国と日本の法律は違う!
 

大坂仰山党 覚え 抜き書き

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月15日(金)07時50分34秒
返信・引用
 


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合理論と経験論の違いがわかってないのではないか?  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月11日(月)06時34分46秒
   経験論=経験を通じて形成される。五感から始まると考える。
    だから…である。
    実証の形式。

合理論=理性=形式によって構成する。
    ならば…である。
    推論の形式。方法論。


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猫君、君が文章指導するのは禁じた方がよい。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月11日(月)06時22分9秒
    黒崎氏の文章は理路整然であるのに対し、それ以外の君の文章はぐちゃぐちゃだ。

確かに、豚が同じ光景を見たからといって、われわれと同じ認識を持つとは思えない。そのような素朴な直観でさえも、経験以前にわれわれ自体に何かがあると強く言い立てるだろう


 確かに…前段落の具体化か、強調をこれから語りますよ。って全然関係ないぞ、おい。
不用意なことば

 豚が同じ光景を見た。←経験できないことです。したがって経験論とは無縁です。また
            合理論ならなおのこと懐疑の対象となる事象です。

 われわれと同じ認識を持つとは思えない。←同上。まったく合理的な説明ではありませ                      ん。

 そのような素朴な直感←豚がわれわれと同じ認識をしていないだろう。は直感ではありま            せん。人間と豚を文節する認識は直感です。しかし、豚が認識し
            ているかは実験(経験)を通して確かめられることで説明なしで
            は理解できません。直感ということばの意味がわかっていませ             ん。

したがって、結論はまったくの独断になっています。論理の組み立てがよくありません。
飛躍するのはやめましょう。



ロックのような真っ白なキャンバス、そのキャンバスは豚のそれとは大きく異なっていると感じる。ただ、画布が大きな要素になるかどうか、そのあたりになるとなかなか一致することはなかった。


 説明不測です。経験論者であるロックが主張したタブラ・サラ=白紙説という文言がなけ
れば不親切この上ないでしょう。

 君は豚だったのか?自分と豚のキャンパスは異なるように思えるのはまだいい。感じるは
明らかに間違い。思索の結果と感覚器での刺激を一緒にしてはいけない。快感を思うのと快
感を感じるのでは意味が違う。片方は快感の中にいない。君は豚なのか?

 キャンパス・画布、、同じ文章内での言い換えはルビをふったりして混同が起きない
ようにすべきです。

 また<一致>です。何と何が一致するんですか?意味不明になってます。
読み手を置き去りにして書き手がどこかへ行ってしまってはいけません。

 一番重要なこと→黒崎氏の文章の補足にも解説にもなっていない文章です。引用する意味
         がありません。

…で省略したところがないために黒崎氏の文意が恣意的になっています。

認識を通じて知識は成立する。<省略>

 しかし、(この逆説が本当はどこにかかるのかが問題です。)

認識そのものは認識を通じて成立するものではない。(生じるという動詞がポイント
                         です。)

そういう話であって弁証法とは無縁ですし、まだ経験論と合理論はこの時点では統合され
ていません。<転回>の説明の準備です。





 

大坂仰山党 覚え 抜き書き

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月15日(金)03時13分49秒
返信・引用
 


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弁証法の萌芽  投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月10日(日)21時56分38秒     編集済
   黒崎本 序章p.36
「われわれの全ての認識が経験と共に始まることは疑いえない。
・・・しかしだからといって、われわれの認識がすべて経験から生じるわけではない。」
(B1)

黒崎先生のご指摘通り、カントは合理論と経験論の<統合>を目指したのである。



確かに、豚が同じ光景を見たからといって、われわれと同じ認識を持つとは思えない。そのような素朴な直観でさえも、経験以前にわれわれ自体に何かがあると強く言い立てるだろう。
ロックのような真っ白なキャンバス、そのキャンバスは豚のそれとは大きく異なっていると感じる。ただ、画布が大きな要素になるかどうか、そのあたりになるとなかなか一致することはなかった。
われわれは、何かが違うという確信はある。だが、その確信の内容は語れない。

カントはそれを語ったのだ。


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差延…  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)22時30分28秒
   みたいなことを言いたいなら、で、、、、どうだっていうわけ?

 乖離が必然であり認識は乖離がもたらすのだという話でしょ。それ。
認識が可能である。なら条件は…みたいなこと。

規則を生きているときには規則を意識しはしない。しかし、規則を規則として認識
するようになったとき、われわれの生と規則の間に乖離がある。

  でも乖離があることが問題なのか?規則を生きていることの方が問題ではないのか?

でも、猫君、言語に不自由すぎて類推すらも不可能です。
ごめんね。ごめんね。


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猫君…  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)22時11分38秒
   現実=自然じゃない。

 そのように<なる>ことが問題なんだ。(って最初から柄谷は指摘しているはずだ。
柄谷経由なのになぜそれが読めないのだ?)

 いっておくけど、数学は形式的には無矛盾な体系です。しかし、その体系の底において
形式化の始めに行われた条件化が適切かどうかは形式が無矛盾によって証明されるかのよ
うな証明不能に陥ってしまうだけです。(形式の外部が形式を支えているってこと。
自然は常にブラックボックスなのにその自然がなければ肝心の形式化もなされない。)

 自然言語でできないから、論理学は記号を、そして、数学は式を使う。
 自然言語は無矛盾なんかじゃない。自然/言語なのだ。
 自然言語が無矛盾である必要はどこにもない。


カントが数式をどうたら、そんなことまるで関係ない。
要はカント的共通感覚と数式は関係ないということなんです。


 はい。いただきました。藁。この語りに意味があるのか?まったくシンタクスたりえて
ないのではないか? 「要は」まとめのつなぎであるが…前文と後文はただの繰り返しで
ありまとめではない。カント的共通感覚と数学は無関係…そりゃ、アプリオリの説明に
苦労するこったろうな。直感の説明ができなくなっちゃうもんなあ。あーあ。

 リーマン幾何学とユークリット幾何学のつじつまが合うはずがない。
 次元(根底の条件節)が違うのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6

 図形と空間は同じものではない。宇宙が馬の鞍の形をしているのではないかと数学的に
考えてもそれが規則と無矛盾なら否定することはできない。

http://image01.wiki.livedoor.jp/h/o/hosei_astro/5c9f2aef9e605779.pdf

 あと言ってることに意味がない。
 というか君の言うとおりなら、君は黙るべきで、語るべきことはなにもないはずだ。
一番痛いのはこの部分。

何度も言いますが、左右の問題ではないんですよ。現実と形式の乖離とか、そんなことではないんです。

現実や形式、それ自体が”自律的”に乖離=分裂していることが重大なのです。

    問題ではないこと=左右、現実と形式の乖離
    問題なこと=現実や形式において、それ自体が自立的に乖離している。????

現実と形式を(やでつなぐということは並列である。)したがって、現実が自ら自立的に
乖離しているなるへんてこな文章ということだ。どこが変てこって 自ら自立的にが変。

 自立とはこの場合外部をもたないでつまり自閉的にあるいは独立してということだろう。
はあ?乖離っていうのは、合一ではないということだ。あれーーー矛盾だよ。

 他のものとは無関係に自立しているなら乖離はしない。他のものと相互関係にあるのにその関係が切れていることを乖離というのだ。

 つまり、猫君は難しいことを言っているようで自分で立てたい問題すら言語化できないで
いるのだから、もちろん、答えが見つかるはずはない。

 数論的にいうなら、単にこの世界は俺の世界じゃないといいたいだけだろう。じゃあ、ど
のように旅に出ればよいのかという問いになるはずである。乖離しているのは自分の感覚な
んじゃねーのという<離人症>という症例もある。(っていうか思春期になったぞ。わしは。)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=0&oq=%e3%82%8a%e3%81%98%e3%82%93&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4REAL_jaJP316JP316&q=%e3%82%8a%e3%81%98%e3%82%93%e7%97%87





 

大坂仰山党 覚え 抜き書き

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月15日(金)03時05分44秒
返信・引用
 

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読めない君は勘が悪い。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 8日(金)22時37分30秒
    なんでかって、読むこと=知識を武器にしようとして読むから。
それは喜ばしき知ではない。喜ばしい知でなければ新しい関連は見えてこない。

 きちん筋を見せてあげているのに未だにピンときやしない。
読むということを本を読むことだと思ってるからだろう。読むということは現実を読むこと
から始まるし、そこへ返っていくことなんだが。


教育チケットシステムは是か否か  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時41分41秒


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飛躍してはいけない。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)00時14分34秒
   対象が私たちの認識に従わなければならない

 と黒崎本の解説を直接つなげることは間違い。

<このカントの文(翻訳が原文に忠実だとすれば)〜なけらばならない。である。
であれば、条件節がある。○○だとすれば、○○であるから。

 黒崎本はすでに対象なんかはないと言っている。私たちの認識=対象なのであって
その他の対象はない。そうでなければ、わたしたちにとっての客観もないというのが
黒崎本の説明である。

 コペルニクス的転回とはどんなことをもたらしたのかを黒崎本は説明しているので
あって、コペルニクス的転回そのものを説明しているのではない。

 でないと、もうここでアプリオリ=人間の条件が登場しなければならなくなってし
まう。それは構成上すごく難しい。というか、カント哲学の急所はこのアプリオリの
概念にある。法則にしたがっているから正(善)という考えは実はここに起因する。


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で 塾の立場としては  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)00時37分10秒
   パウチャーの方がいいと思うかい。

 その根拠となるのはどんなこと?
 それは果たしてどの地域にも当てはまるだろうか?


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文節の仕方こそアプリオリ  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)00時35分17秒
    だからこそ、犬と呼んだり、dogと呼んだりするにしても、あの生き物を他の生き物から
明らかに文節すること、あれを生き物として生き物ではないものから文節すること、存在と
して現象から文節することはアプリオリなものとして考えることができる。

 (↑この考え方がチョムを読む際にも大事になる。恣意的だからこそすべての言語が…
というのは機能という視点によるクラスの見方である。)


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猫君が総合的認識をどうさけて書くのか楽しみにしておきます。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)00時26分51秒
    式などの数学の概念を使わないでアプリオリは説明しずらいだろう…いったいどうする
 つもりなのか。

 山という概念があるから山があるなんて言い方はさすがに足元をすくわれる。
 カントはそんなことをしていない。(そうでなければ山ということばが先験的という
 ことになる。先験的なのは”ことばで文節する”ことなのであって山という概念では
 ない。カントにとってはすでにことばというものは恣意的なものである。)


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正しくは  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)00時20分20秒
   これまでは、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みは、この前提のもとではすべて潰え去ったのである。そこで、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、一度試みてみだらどうだろう。

 <つまり方法的な転回であって、本当にそうなってるとかどうかなんかは置いておけと
  いっているのである。>
 <黒崎はこの方法がどんな認識をもたらしたのかを語っているのだ>

きちんと読みたまえ。原典と比べることも必要だが一足飛びはよくない。


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猫さんへ  投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年 5月10日(日)02時22分9秒
   めんどくさいから、電話ください。

090ー2895ー3426


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わしはテレポーテーションなんかしてないよ。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)07時52分29秒
   猫くんのテレポーテーションは間違っているといっているだけ。

 アプリオリを使わないでそれはもってこれません。黒崎が序説で記述しているのはその
結果であって、それを説明しているわけではない。

 そして、カントは方法的な転回を提案して話を進めている(モデル化)のであって、そ
れが事実であるとか正しいとかは<実は、言っていない>しかし、それがいろんなことを
説明しえて、われわれが考えるのに役に立つならば…と言っている。

 黒崎はしかし、この転回を正しいものとして語っている点で明らかに<転回>について
語っているわけではありません。

 猫君が誤ってカントと式で見る/表現するは関係ないなどと大見得を切っているのでと
っても楽しくなっているだけですよ。一体、何をどう読んでそんな大見得を切ったのやら
アプリオリに与えられている直感として数学的概念を真っ先に上げているカントが聞いたら
びっくりすることでしょうな。

 カントもびっくりする。そして、何より黒埼もびっくりする説明(もはや、そんなもの
捏造である。)をとっても楽しみにしています。猫君の言うことはこんなんばっかりです
よ。論理的飛躍が大きすぎます。(というか結論が先なんだろうな。)

0で割ることは除法の定義に反するからですよね。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)10時28分39秒

本当は速度0は存在しない。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)10時35分18秒


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いやそれはちょっと違うぞ。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)11時04分27秒
   あくまでも

 1足=2こである。じゃないと 1モル=12gとかどうすんの?

つまり、現実と…数学的規則は別個で考えようね。(あーカントの核心を言っちゃったな。
現実は社会的慣習なんだよね。カントはその社会的慣習というやつが理性の外であること
理性を適応できる範囲を規則が適応できる空間だけと限定してるんだよね。これが。

 だからドイツ観念学なのに、これで現実をうんたらかんたらするのはちょっとした手続き
(形式化)がなければだめなんだよね。猫君はまったくわかってなさそうだけど、でなけれ
ばいきなり転回しないと思う。


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でも、今や棲み分けは出来ないですよね  投稿者:TAMO2  投稿日:2009年 5月10日(日)13時59分37秒
   「形式化と現実(社会的慣習)をごっちゃにするところから混乱が始まるので」

物凄く大事な提起だと思います。だけど、現実こそが形式を抱き込んでごっちゃにして
いると思いませんか?

例えば、虚数という得体の知れない、そもそもは観念の産物は、フーリエ変換などで
ものづくりのエンジニアリングに入り込んでいますし(ってか、電気の方程式とか
量子力学の方程式がいいですよね)。

複素関数論のリーマン幾何学なんて、もう、訳が分かりません。


「猫」さんは、リアルということで一緒に捕らえようとする傾向が強く――だからどの
ように返そうかと周囲を悩ませる(罵倒表現を別問題としても)――、「あ」さんは
分離しすぎな気がします。


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わたしは自然を人間化するのが仕事なんですよ。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)18時45分31秒
   それが善とか悪とか罪とか功とか一切の価値判断は社会にまかせる。

 自然(子ども)を人間化(社会化)するのが私の仕事なんです。

だから、自然と社会をごっちゃにしてしまっては何をどうするか、まったく手に負えなく
なってしまいます。

 問題は<社会は作り物だ>という事実です。自然と対話する精神を尊重しながらも、人間
として生きるということはこの<作り物>を生きることでもあるということなんです。機械
論的自然認識(因果)ではなく同調的自然認識(共有)をいかに残しながらそれをやるかと
いうのが実は教育の最大の課題だと思っています。

 昔は片方を宗教がやってたんですよ。


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自然と社会をごっちゃにする  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月10日(日)18時39分2秒
   のがいけないんですよ。

 投手。

人間は常に都市化されてしまえば社会しか相手にしてない人が増えます。経済なんかまさに
そうですよね。工場で野菜をという発想も結局は機械的自然観まんまです。

 養老さんはこれを脳の外化といいました。

一方で実は、ものづくりや科学では<自然>が対象になることが多く、
自然をなんとか理解し、機械的自然観の形式に変換しようとしている
のですよ。<虚数>の利用なんて私はあーすげえうまいことやったなあ
と思ってます。その数があるとかないとかではなく、その数がもたらす
効果(意味)をうまく利用しています。

 形式化だからこそ、形式しかない数学がまさに利用できる。

たとえば、投手の専門かもしれませんが、
<ボルティクチューブ>なんて形式化できてませんが、現実には
圧縮空気を送り出すだけで高温の空気と低温の空気を得ることが
できます。技術者はただできるからその効果を使うだけです。





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形式化の爆発的加速の契機と現実との”界面”  投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月10日(日)21時28分3秒
   TAMO2氏

現実=自然によって自明なものとして支えられることから離脱してから、数学は飛躍的に進歩発展しました。虚数だけでなく、リーマン幾何学も”基礎”を持たずしてスタートし、結果としてそれが現実世界の記述にうまく適合したというパラドキシカルな結果があるのです。
世界はそれを記述する言語によって、いかようにも開示されるということでしょう。

しかし、その言語は無矛盾な体系でなければなりません。
数学のような形式言語なら、その無矛盾性というのは簡単にイメージできますが、自然言語ではそう簡単ではないですね。

自然言語の無矛盾性を言うと、意味における無矛盾性を持ち出されそうです。
言語とは、第一義的にsyntaxであります。そういう意味で無矛盾性ということです。

現実や日常と形式化の二項の関係が問題なのではありませんよ。

要は、「あ」ぽんの嘘やクネクネが問題なのです。そこをなぜ問わないのか、いつも不思議に思っています。普通なら頭をかしげることを、あえて看過し現実と形式というような二項の問題にしてしまう。
現実自体、形式自体の歪みや壊れが問題なのですよ。


カントが数式をどうたら、そんなことまるで関係ない。
要はカント的共通感覚と数式は関係ないということなんです。


リーマン幾何学とユークリッド幾何学のつじつまが合わないというような話しにするのは何とも言いがたいですね。「あ」ぽん幾何学というのは、その演繹体系において破綻しているというあたりが重要なんではないですか。

他との関係において問題があるのではないです。閉じさせて、なおかつ問題なのです。
自壊する論理、自滅する価値、そういうものに気づくことがないのなら、そう仰ってください。

趣味の野球に関するコメントのように、もっとシャープであって欲しいです。
不要な配慮で、患者は治りませんよ。何度も言いますが、左右の問題ではないんですよ。現実と形式の乖離とか、そんなことではないんです。

現実や形式、それ自体が”自律的”に乖離=分裂していることが重大なのです。

ガンはそろそろ告知すべきでしょう。

人格的に最大の美点が、結局は見誤り見逃し手遅れにすることもあります。

>人間にとっての根元は、しかし人間自身である。」

ここで最大に重要なのは、「しかし」です。

マルクスは、「しかし」重要な人間を捨て形式化したんですよね。
形式化しえない”人間”というものを最大に知りつつ、なおかつ捨象したことの意味をどう考えるかです。

理屈で否定するのも否定されるのも嫌だというのは大きな欺瞞です。
理屈で否定し合う対象が趣味ならOKだというのが欺瞞です。

相手を否定し合う、自らを肯定し合う。大好きなんですよね。
それが人間の本性だとか、そういう足りない話しにも興味ありません。要は、その本性を前提にしてどうするかっていうことです。自分に都合よく道徳にし立て押しつけることほど不幸な社会はありません。

そういうことは、それとは正反対の無機質なシステムで対応するべきなのです。それが、われわれにとっての”健康”だと思います。


服の上からシップしても患部にまで届きません。


 

大坂仰山党 覚え 抜き書き

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月15日(金)02時45分29秒
返信・引用
 
投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 6日(水)16時03分46秒
真とは規則に合致するという考え方は、実は遠近法主義とは真逆です。しかし、それをもた
らしたのは知的遠近法という考え方です。(ややこしい)

 で知的遠近法の根底はカントの共通感覚論まで降りるんですよ。またコモンセンスです
よ。

2009年 5月 6日(水)21時45分54秒

江藤淳の文体写しをした柄谷にくらべて修行が足りないと思う。



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嘘  投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月 6日(水)21時56分15秒
   >カントが共通感覚について論じたところという意味ですよね。

共通感覚なんてカントは言ってない。

で、知的遠近法はどこで論じてるんだあ?w


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宿題  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 6日(水)22時24分24秒
   猫君が読むべき本は
ハンナ・アーレント
「人間の条件」であろう。



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勝負あり(笑)  投稿者:堂人  投稿日:2009年 5月 7日(木)01時19分0秒
   >カントは共通感覚「論」なんて論じていませんよ。
いろんな人が、カントの文言にそう見出したにすぎません。

知的遠近法とカントの関係を説明するのに、共通感覚論が出てきました。

それに対する猫氏の反論。

この図式が全ての問題提起、話題においてパターン化されているように感じる。
現実、カントが共通感覚について語っておれば、
>いろんな人が、カントの文言にそう見出したにすぎません。

現代解釈では、カントの共通感覚論となるのでは???
それに食いついて、反論するのであればもっとマシな反論を用意すべし。
これについては、得意の引用も出来ない(笑)引用する事が、あ氏の「論」の証明に
なるからね。

私が質問した事に、せっせと答えてくれたでしょ(笑)
カントが共通感覚論の周辺で指摘遠近法を論じている。
それで、良いのでは?私にはどうでも良いことですから、知的遠近法やカントは
難しいですが、あ氏がデタラメを言ってるようには感じません。

それより、共通感覚論に「論」ではないと難癖をつける猫氏の幼稚さばかり、
目に付きます。それを隠す為の罵倒雑言(笑)

今度は猫氏に質問(笑)
カントの語る共通感覚についての話とはどういったもの?
それが共通感覚論でなければ私達はその考え方を何と呼ぶ?

>半蔵さん
>wrでは(笑)に変換出来ない。

語句登録するんですよ。
私のパソコンは1を変換すると、投手、ファースト、一番梶田と変わっていきます。
9だと、ライト、ライトフライ、九番...

出来ない、知らない、おかしい事が多くありますが、それは私達がそう思っているだけで
案外他の人には常識感覚な事が多いですよ。
だから、この歳になっても学ぶ事が多いです(笑)

投手、明日は忙しいでしょうから、電話は夜します。
それまでに猫氏連絡ヨロピク。

投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 7日(木)06時24分54秒

猫君の使う数理系のイメージや概念は当てにならないから。
使うなら「樹木」だとか「海」だとか「水」だとかギリシア哲学
のように目に見えるものにしておいた方が無難だと思う。
二次関数 三次関数 4次関数…がそれぞれ次元に対応しているわけだが
その一般式を書けっていう単純な問題も間違っていそうだ。
高次の関数はそれまでの次元の関数をすべて含むってことを忘れると
とんでもなのだ。(じゃなければ次元として考えられえないでしょ。)

その辺をうまく使ってわれわれの宇宙の構造は十次元であるというよ
うな話が物理学的に可能なんだから。(実際は超ひも理論を現実に
当てはめようとすると宇宙が十次元でなければならないってこと。
で十次元であっても現在確認されている物理法則と何の矛盾を起こ
さなければ<規則に合致すれば>宇宙を十次元だととらえてもかま
わない。)

 ただ群論を駆使して欠く次元の状態を記述するなんていうことを
物理学者はやるわけよ。すると<開いた次元>と<閉じた次元>が
あって計測可能なのは開いた次元だけだ。だから○次元は計測する
ことができないのだ。みたいな話が当たり前に出てくるのが…

 それでも規則を裏切らなければそれも真であるとするしかない。


--------------------------------------------------------------------------------
カントは  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 7日(木)06時47分26秒     編集済
    どのような見方をしても同じことは、(共通感覚)=客観と考えるべきだ。
としているわけ。

 で、この(共通感覚)はアプリオリ(先験的、生まれつき、人間なら)に
存在するものとして考えられるってことね。

 そこから人間についての真も善も美も導きうると…判断の正当性も主張できる
のだ。

 (という目論見)

別に今更デカンショをやる必要はないと思うけど…ドイツ観念哲学がそんなに好きなの
かねえ。


 今なら人間は脳のしくみ(認知のしくみ)は同じであるっていうところだろう。
これは、錯視の研究で本当にそうなのか確認できるわけだね。
きちんと、わしは説明しつづけてるわけだけどね。

 それを理解できないってことはやっぱり、あれなんじゃないかねえ。そこに
<信じる>という社会的な基盤の影響を入れないとだめなんじゃないかなあ。
というわけでわしが右往左往情報を集めている分野がどうしてそんなところに
固まっているのかってことの説明にもなっているんだけどね。



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ちがうちがう。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 7日(木)07時05分9秒
    その式を表すのにa b = 整数 というものを使うってところが共通感覚さ。

つまり式というもので世界が記述できるというのが共通感覚ということになる。

その式の内容を比べて…判断するってこと。(そう考えると実はデカルトの
共通感覚を下敷きにしたものだってことがよくわかる。方法序説をあれだけ
やったのも…忘れたかもしれないが、英語でcomon senceとして出てきてま
したよ。…きちんと一連のつながりが計画されてんの。メンドクサクテ途中
で放置したけど。スピノザの神=自然 多様は一みたいなのもその辺とつ
ながってくんの。)

 アプリオリって条件からいうと式がうんぬんというのはちょっといただけない
けどね。でも、チョムスキーなら言語を使う能力は先見的(アプリオリ)って規
定しているからそう間違ってもいないかもしれない。現実と齟齬を起こさなければ
真でもいい。

種あかしw  投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月 7日(木)23時46分36秒

そのチョムだが、よく知られているとおりユダヤ系だ。サイードはパレスチナ人。この二人が仲良しで、(手に手を取って)政治的に影響力を持っていたということは非常に意義深い。

招き猫  投稿日:2009年 5月 7日(木)23時57分23秒

チョムとサイード、むしろこの両者が何か不可能性を象徴しているというような。
やっぱり、米帝のど真ん中なのか。ど真ん中でしか叫べないという絶望。

うん、この可能性の中心はずっぽり捨てよう。

(゚ω゚;)  投稿者:よわんこ  投稿日:2009年 5月 8日(金)00時39分53秒
   チョムスキーはアナキスト系左翼っつー話を2chで聞きました。



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知識人はもう日本では機能しないんだって…バカ。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 8日(金)05時58分42秒     編集済
   戦後民主主義批判(←にべもあるかな)のおかげでジャーナリズムと知識人っていうもの
の機能はズンドコにおちた。

  そして、日本ではもう金輪際上がってこない。

プロパーとアマチュアの二極化であり、それは、議会とネットという場の二極化になってい
る。

 知識人という階級の代わりに、これで飯を食ってますという肩書きの方が重視される。
有名でなければならない。(いろんな事象が思い浮かぶでしょ。)



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トホホ  投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月 8日(金)22時02分42秒
   半さん

基礎基本から積み上げるという前提で、少しだけ


カントの共通感覚について

http://ningen.hus.osaka-u.ac.jp/kondou/dekant1l.htm
>>
一致の根拠、共通感覚の発生の問題が提起されるようになるのは、ただこの自由にして未規定な一致(美的共通感覚)の水準においてのみである。
>>

要は、趣味判断w

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114214856
>>
・必然性の根拠として「共通感覚ないし共同体的感覚」について触れますが、教科書では、「構想力と悟性の自由な戯れの結果」
>>

純粋理性批判ではなく、判断力批判であるということの意味
悟性という普遍が構想力と戯れる。この構想力は「共同体」の”圧”によって偏向するということが最大に大きなポイントです。

共同体的感覚、これがカントの共通感覚です。要は、趣味の問題。


さあ、半さん、純粋理性批判から少しずつ積み上げましょうよ。
読まない君に教えてもらって満足するのは一人だけで十分でしょw

犬師匠  投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月 8日(金)22時20分14秒
   人工知能ですか。


ちょっと古いですが、彼の「言語論」(大修館)をお読み下さい。
チョムの言語研究のモチーフがよく分かります。言語の研究とは心理学であって、それは生物学の一部を形成するということ。彼の人間「科学」は、すこぶる”科学的”です。だから、チョムは数学でやる。彼の研究はポパーによって正当化されています。反証可能性ということです。ポパーも反証可能性も、チョムをやってる中ではじめて知りました。いろいろ勉強させてもらいました。


 

隔離論争掲示板に出張してきました。

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月14日(木)06時58分6秒
返信・引用
  http://9018.teacup.com/kakuri/bbs

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 母の日なので、言うだけ言っておこう。(力量ないしスキル低いので、説得力ある展開とかは、また別の機会に)  投稿者:nelu(かわふくG)  投稿日:2009年 5月10日(日)23時35分49秒    返信・引用
   まず、> ファシストと共闘する、右翼と共闘する。こんな全学連でいいのか?

 別に問題ないと思う。日本語の言霊的には、左=火照り=男 右=水極=女 右翼と左翼の関係は女と男の関係とアナロジーすると良いと思う。戦前のように、学校を男子校、女子校と分ける方が正しいというのは時代遅れの考え方、今日的には男女共学の方がまともと考えるのが進歩的だと思う。だから右翼と左翼が共闘するのは進歩的なことだと思う。
 もうちよっと踏み込むと、本多さんが革マル派・黒田のことを現代のナチスと言ったのは本質的には全然間違ってはいないと思うし、野島三郎さんが「現代の悪魔ともいうべき反革命カクマル」といったことも同様に別に私もその通りだと思う。
 中核派と革マル派の違いを簡単にいえば、今日的場所的(野島さんの言い方)か場所的現在かの違いです。この「場所的」というのは西田哲学から受け継いだものです。現役のときにそういうことを教えてもらったことはありませんが、中核派の「今日的」というのはまあ、ヘーゲル的過程的(時間的)論理と取りあえずとらえて(西田幾多郎の場所的(空間的)論理に対するものと取りあえず捉えてもらうといいと思います)、それは、光、観念、父神、未来に向かっているのに対して、革マル派の「現在」というのは裏返しのヘーゲル的過程的(時間的)論理として、闇、物質、母神、過去に向いているのです。だから中核派と革マル派は真っ向から対立するわけです。革マル派のこといろんな意味で女革マルという言い方をされましたが、或意味それは当たっているとわたしは思います。こういう表現は女性差別だということでしないことになっていますが、しかし、中核派は男かというと中核派の「中」は中性の中だと思います。中核派が男だったら、黒田に対して本多さんは論理的にも勝てたと思うけど「レーニン主義の継承か解体か」は一応全面的に批判の端緒を切りひらいたけど、肝心要の「ヘマ」・・・「ヘーゲルとマルクス」には「問題が内在」していると言っただけて事切れてしまいました。50年ちかくもたつて、漸く、第五報告(清水丈夫=プルードン)第六報告(仲山良介=カール・グリュン)で、これに手を付けているいるけど、黒田寛一の唯物論的主体性(「ヘーゲルとマルクス」第三章第三節)が観念論だという批判は全く間違っていると思います。(マルクス主義者と自称しているらしい、廣松渉は観念論者だという批判は別に間違っているとは言えない事とは対照的ですが)

 しかし、「まず、> ファシストと共闘する、右翼と共闘する。こんな全学連でいいのか?  別に問題ないと思う。」・・・というところにちょっと戻ります。

 今、京都の前進社があるのかどうか、塩川派になっているのか、安田派っていうのかん・・どうなっているのかしらないけど、私は阪大だから、いつも京都の前進社に出入りしていたことはないけど、二回か三回行ったことがあるかな、京都の前進社にあるとき行ったときに、指導系列とか全然関係ない人だけどねえ。ある人に、ああっ、思い出した大谷大学の子、たこちやんとかいうあだ名もあつた子だけど、その子が芋兄ちゃんとか言っていたぞ、その人から聞いたのだけど、「止揚学園」とか言って、障害者の施設の話と、なんかある左翼系の雑誌をわたしに見せて、三里塚闘争に、右翼の人が支援として関わろうとしているんだけど、左翼に排除されてしまっているという話がありました。

それじゃあ、男はなんだかと言えばブンド=廣松渉です。

しかし、今日は母の日なので、ルドルフ・シュタイナー「血はまったく特別なジュースだ」(高橋巌訳)の最後に納められたね高橋巌氏の「唯物論から神秘学へ」の講演録の「フロイトと唯物論」という小見出しのところを引用させていただきます。

「ところが、唯物論にはそういう数学的な発想とは別に、やはりわれわれの心の中で大きな比重を占めているもう一つの部分があると思うのです。物質(マテリア)という言葉は、もともとマテルという言葉からきています。マテルというのは、母という意味もあるし、子宮とか母体という意味もある言葉で、存在の根底という意味があると同時に、ある種の母性的、女性的な優しさをニュアンスとして持っています。」

 一応、母の日を記念してのこの引用は終わりにして、続いて「ヘマ」の「序論 唯物論研究の現代的立脚点」 p13から引用します。

「ここで、ヘーゲル弁証法の基本構造の解明からして唯物弁証法にも始元原論を貫徹させ、もって俗流化した唯物弁証法の反措定とする武市健人の業績が想起されるべきである。もとより唯物弁証法に始元論を貫徹させるということは、なんら事新しいことではなく、マルクスにおいては現実的に縦横に駆使されていることなのである。」ってクロカンは言っていまして、私は・・・「もとより唯物弁証法に始元論を貫徹させるということは、なんら事新しいことではなく、マルクスにおいては現実的に縦横に駆使されていることなのである。」というここの部分に「ほんとうか?」ってメモしてあります。まあ、これは嘘じゃないかと思うけど、しかし、嘘だと言い切ってしまうと間違いだとも最近思いました。

 取りあえず、零時すぎると、母の日ではなくなってしまうから、tee up します。

 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時37分24秒
返信・引用
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革命についても否定的  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 4月17日(金)06時32分15秒
    猫くんはまだぐだぐだ言ってますが…。

革命=善であるとか革命=悪であるおとかの問い(行為の価値測定)は無意味です。
その上、革命が必要とか革命が必然とかいう(行為の目的化)は偽造です。

 革命が単なる権力者の(階層)の取替えであるなら、それはクーデターであり、革命では
ないはずです。システム変更こそが革命の革命たる所以でしょうから。


 そう考えると、革命を目指すなんてことは馬鹿のやることだと小6で判断しました。というより、われわれは今や毎日が革命を宿命づけられて生活しているのだなと高1で理解しました。

 資本主義こそ永久革命だったのです。でマルクスは永久革命も最後はしんどくなるそして、全てがごわさんになる。そうなる前に、それまで蓄えたものをうまく使って別のところ
へシフトしよう(逸脱)という最終革命を提案したわけです。

 マルクスがわれわれ労働者と語ったとき労働者とは何かは明解でした。(今はちょっと違う。CEOも間違いなく労働者です。マルクスの定義でいえば…)マルクスは単に資本主義がもたらす革命を人間関係の革命へと転換することで解決しようと思いついたにすぎません。マルクスの革命論自体は現在はまったくの無効です。

 そこに可能性はありません。マルクスがあれだけ熱く語ったことは<あの時代において有効>で<あの時代のための言説>なのです。そして、言説闘争においてはマルクスは万人が認める<卑怯者>です。マルクスのやり方について誰も認めません。正々堂々ということば
の真逆をいってますから。

 結局、社会とは何か?社会内存在である自己とは何か?国家とは何か?国家に何が可能か?という問いによって各自のポジションが振り分けられるだけで、その多様性の中で可能性を模索していくしかないのが現在という困難なのだと考えます。

 文献学でどうにかなるものなら、、、、はっきりいって、もっと頭のいい人たちは一掴みなんぼぐらいいるので…猫君やわし風情が出る幕などまるっきりないわけです。

 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時35分5秒
返信・引用
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動物農場を読むだけで十分じゃね?  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 4月17日(金)21時54分8秒
    動物農場
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%BE%B2%E5%A0%B4

 映画も公開されるそうな。

http://www.ghibli-museum.jp/animal/

 マルクス経済学を多くの人が「宗教」と考えるのは、本当に、まっとうな話で、そもそも、マルクスはそのようなものとして実は共産主義を考えているからである。

 人間は、時間を生きるのではなく文化を生きる存在であるから、革命なんてことばを出したとたん
にそうなる運命でもある。科学的であろうとすること=宗教的になることはクーンとホバーの論争を
省みれば十分である。

 人間の諸関係がすべて生産関係に還元しうる。しているのが「資本主義」だと考え、諸関係を生産から開放しようと意図したマルクス…それをまっとうに引継ぎ得るのはどのような考え方なのか…
 とはいえ、わしは反共で全く興味はないけどね。

 言説として理解できるのと、その言説の意図を支持するのは全く次元の違った話。それをごちゃまぜにしてしまってはいけない。
 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時32分41秒
返信・引用
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仏教徒で中観派の私には  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 4月18日(土)02時07分0秒     編集済
   宗教というものは<他者への施し><社会への愛>を説くべきものにすぎません。

自力本願はそれを自己責任へと転換してしまいがちなので、基本、否定でございます。
今、目にしているのは、資本の蓄積の偏りからくる上前としての利益の差としての格差
です。

 その証拠に私のいる北海道では、職訓系の学校に進学はしても、大学への進学は4割以下
ということになってしまいました。本当の意味での学歴社会というものが始まるのか、「大学は出たけれど」の社会が始まるのか、これは転がってみなければわからないものです。

何をどう信じてもよろしいのですが…
労働価値説からくる転換問題でマルクス経済学は経済学としての基礎を失ってます。
共産党宣言から始まる革命への言説はソ連ならびに社会主義国の実際によって批判を免れ得ないでしょう。
あえて、柄谷行人が「可能性の中心」としてマルクスがうまく誤魔化してしまったこと=商品としての貨幣/価値としての貨幣を取り上げたのはそのような背景からです。マルクスは終わったとして、その思想をまったく省みないのであれば、マルクスが直面していた問題を
とらえることもできなくなってしまいます。

 マルクスの可能性はまさにマルクスが直面していたものを引き継ぐことの中にあるはずです。(わしはやる気はないけど、というか、結局、とりあえず、自由にしておくことしかないと思っているので)

 安全を理由にして自由を喪失しないこと。
 生存を理由にして自由を喪失しないこと。
 独占は自由ではないこと。

追伸
わしが示した四つのパラメーターによってその人物の政治的な立ち位置は測定できるとい
う考えは妥当であろう。

社会 個人 国家 この三つの関係をどのように説明するかということが政治なのだか
ら。
 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時29分24秒
返信・引用
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権力は腐敗する…  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 4月18日(土)18時45分56秒
   ということを経済学で扱ったのが、情報の不均衡を問題にするプリンシパル・エージェント
問題です。

 で、結論としては、社会主義者や共産主義者が考えるような腐敗しない権力なんてもの
は存在することさえできません。

 権力が腐敗するのではなくて、実は、権力が実現しようとすることを理解し、それを実行
できる者が権力に集中することの構造の中にこの問題の難しさがあります。

 猫くんがいう「蓄群の覚醒」なんていくら待っても、働きかけても起きるわけがないのです。なぜなら、「覚醒したら蓄群」と「覚醒しない蓄群」の分離が起き、「覚醒した側はも
はや蓄群ではない。」からです。

 する側とされる側の分裂(分業)にこそ問題があるのであって、意識の問題に置き換える
のは実は無意味です。ニートとは完全にされる側だけでも存在が成立するという現代資本主
義の目に見える姿ともいえます。

 社会主義者や共産主義者は<前提として、お互い様>である世の中、フリーライダーが存在しない世の中、そして、そのこと=労働することは喜びであるという宗教が根っこの根っこに隠されています。(私は労働こそ社会だと思ってますけども、世の中には労働=苦役と
思う人がいて、いたってかまわないわけでしょ。そこに×印をつける人は自由主義者じゃな
いんでしょうけど。)

私は
社会とは何か?
社会内存在である自己とは何か?
国家とは何か?
国家に何が可能か?
と問いかけることでスタンスの違いを明確にしないと話もわからないと思いますよ。

 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時22分11秒
返信・引用
 
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うーん。どうもなあ。理解されてないような気がする。  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 4月27日(月)07時32分17秒
   遠近法、誤解されているというかよく理解されていないような気が大層する。

 人間の基本的に視覚は遠近法的にはできていません。これは現象学では証明済みのこと
なのです。人間は有用な情報を地と図に分けて見取っているのです。ですから、セザンヌの
チョッキを着た少年の右手がそこだけをみるとやたら長いのに絵の中では気づかない。脳に
とっては自然に感じられるから。

 遠近法的に見るというのは遠近法的に描くからこそ成立しているのであって、一点透視法にしても二点透視法にしても実は視覚的には限界があります。また、遠近法は見えざる作者の視点に見るものが立つという暗黙の了解によって成り立つものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%BF%91%E6%B3%95

知的遠近法っていうのは、基本的には概念の図式化形式化のことと考えて十分でしょう。
そのような図式化形式化がなされ共有されているからこそ、ある事象が真実であるとされ
るという考え方といってもいいかもしれません。
 ある事象が真実であるのは、その背景たる遠近法が維持されているからであり、背景たる
遠近法が維持されているのは、ある事象が真実であるから。という転倒があるってことで
す。(でも、これで何かが言えたつもりになってはいけない。こんなこと実は無意味。空の
考えで十分です。真だから意味があるというような閉塞に風穴を開けるぐらいのものです。
真であろうと無意味なのです。)
 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時17分19秒
返信・引用
 
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まっぺんさんへ  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 4月30日(木)06時51分3秒
    わしは「王に対して書かれたもの」として同じと言っているだけですよ。

 どちらも乱世をどう収めるかって話で偽善とか偽善でないとか…そもそも善とは何か
みたいな話をしないでは意味がないですから。

 それに君主論において偽善がうんぬんというのはやっぱり読みが浅いと思うんです。
単にポピュリズムに陥ってはならない。ってことを言いたいだけでしょ?評判なんか
当てにならない。領土を奪い取れば喜ぶのが民というものだし、どんなに善いことでも
そのために自分の財産が奪われれば恨むのが民なんだと。

 国家をいかに安定させるか統治するかこそが善なんだってことですよね。
それを暴力で行うか、徳政で行うか…って違いですよ。

 わすれちゃいけませんぜ。孔子は乱世に生きた人物であれは乱世を治めるには
という教えだってこと。(だから、易姓革命なんて思想につながっていくし、
しまいには、法家(韓非子)の土台になっていくわけでしょ。)

 その上で、どちらも権力を手に入れた人間にとっては一種の教科書だっていう
のも同じですな。

 徳は人を治めるのかって問題は結構でかい問題でカリスマっていう問題につなが
っていくわけでしょ。天皇制をかかえる日本では無視できない問題のはずですよ。
 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時14分47秒
返信・引用
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何を?  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 1日(金)07時15分55秒
    ことばを使うことは簡単だけど、そもそも何のためにそれを言っているのかわからない
のでは、やりとりにはならんでしょ。

 猫くんが二者択一に追い込まれているのはなんとなくわかるけど、その背景となるものが
カオスすぎて(たぶん本人にも未整理で)その二者択一には意味のない感じです。

 半さんの指摘も同じものを見ながらという感じじゃないので、どうしようもないのです。

そもそも知的遠近法なることばを使いたがるのは猫くんなのだから、猫くんがまったく説明なしに使うことの方が問題でしょう。
 <柄谷経由猫君行き>のことばなんでしょうし、柄谷経由語を猫くんが本当に理解できているとは思えません。目の前の問題を形而上学的にアポリアにしてしまい、それと闘っている俺は…という構造を相対化できない。(遠近法を自覚していない)そのための手続きばか
りにこだわっている気がします。

 で、そのアポリアっていうのは形而下的にいえば、「金がない。仕事がない。安定がない。俺は負け組か?」なんでしょう。…人はなりたいものにしかなれません。「本当に金持ちになりたい」と思う人は金持ちになれます。…そんな単純なと言われる方は「できたら
○○ならいいな」ぐらいの願望しかもっていないのです。

 制度がうんぬんとか権力がうんぬんなんていうのは「そんなことを言ってもそれは自分の
努力や行動と無関係だから安心して言っている」だけです。単純に自分が金を手にしたいの
ならば、金を手に入れる努力をするべきで、手に入る金を基準に行動を選択すればよいので
二者択一なんて状態には陥りません。

 その小さな選択の繰り返しで金を増やしていくことが金持ちへの道でしょうし、そうなれば事業者になるしかないという今の世の中の仕組みにいきつくでしょう。使われる立場はいつだって貧乏でしかありえません。(金を基準に考えれば利益があるということはそういう
ことだ。)

 金持ちになってから幸せになるを考えればよいのです。能力は欲望が鍛えるのです。あれもこれも(いや、ほとんどの人がそうだから、人生というものの絵柄がみな似たりよったり
になってしまうのだ。)なんとなく(本人は決断したつもり)流されて気がついたら文句しかいえないというところにいるのです。

 そのことを肯定できないのが問題でそのことさえ肯定できれば、これからもそうするのか
これからは変えるのかというそれだけになります。その二者択一ならよくわかるのです。

 なぜ、彼は天皇制を否定しながらいつも加護者を求め、権威や権力に認められようとするのか鶴の一声のお墨付きを求めようとするのか…結局はそのことに尽きると思います。フリ
ーランスではあってはならないことのはずです。だったら、自分が権威や権力を持てばよい
事業者になればよいのです。  
 

仰山党覚え

 投稿者:nelu original  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時11分27秒
返信・引用
  色々組み合わせ
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あまりにも自明なこと  投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 5月 2日(土)09時16分36秒
   「わたしの言語」=「私的言語」ならそんなものは存在しない。

 言語というものは間柄的な存在であり、遍在する何かである。そもそもが、○○語=○国
語である日本の言語空間の中で「デリダが身体性として”持ってしまった”ある違和感」と
いうものを<言語化>することは困難だし、共感することも困難だろう。

 デリダなら何でもいいのか?と言わざるおえない。

 勿論、デリダという存在を人間として理解する(それこそデリダが回避しようとしている
ことだと思う。つまり、それをさせないためにこそこの本は書かれたのではないか?)とい
う動機を現代日本でどのくらいの人がもてるのか?

 言ってはいけないかもしれないが、デリダはたぶん一般化しない。ドゥルーズ・ガタリ以上に一般化しないだろう。何しろラカンすら一般化していない日本なのだ。(そして、案外
それが正常化である気がする。)

 ロゴスがない日本で脱構築は意味がない。なぜ、ロゴスが必要とされないか、こそ説明さ
れるべきで、ロゴスなしで真が成立する”ことになっている”のはなぜかの方が日本では、
意味があるだろう。  
 

残念だけど、まだ寝てた方がいい

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月 8日(金)23時15分6秒
返信・引用
  ネルさん、関西の方へは来ることないんですか?  

nelu

 投稿者:nelu  投稿日:2009年 5月 8日(金)23時13分5秒
返信・引用
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今日はこどもの日か  投稿者:nelu(かわふくG)  投稿日:2009年 5月 5日(火)10時46分48秒
    元々は男のこどもの日だったと思うけど、三月三日は休日ではないよねえ。そういうことから差別云々で、曖昧にして、単にこどもの日ということになっている感じ。

 前、ウィキウィキして、知ったんだけど、豊田章男さんだったよねえ。わたしと同年ですが、まだ、正式には社長にはなってないのかねえ。「前、ウィキウィキして、知ったんだけど」というのはこの人誕生日が、五月三日、憲法記念日なんですね。どういう業かなあって前にもかいたけど、

 ええと、イレギュラーあさんが、親の面倒を看ているけど、貯金はないと言われまして、
 半さんは、黒崎カント本を買うことができないので、図書館で借りるという話との関連で、・・・五月三日の中日新聞の社説、「忘れたくないもの 憲法記念日に考える」

 あっ、ふと思い出した。レオさんが読んだと言ったもんで、「さらばモスクワ愚連隊」か読んだんだけど、そのハードカバーの小説のなかに、血を売って、生活費に当てている美学生だかの話があったけど、後になって買ったエッセイで、その血を売っていいたのが五木寛之さん自身の話だということしりました。

 兎に角取りあえず、社説の一部を引用します。

「OECD(経済協力開発機構)のデータによる、いわゆる貧困率は先進国中で、第二位、金融広報中央委の調査では、一九八〇年代に5%前後だった貯蓄ゼロ世帯が二〇〇六年には23%に増え、三千万人が何の蓄えもなしにその日暮らしをしています。」

 尾道の友人は私のことをブルジュアだといいます。私は、凡々で、坊ちゃんだということも言います。そうだといえばそうかもしれない。マルクスもエンゲルスにずつとたかっておったらしいけど。コナンさんは自分のことをブルジュアだと言っていたけど、旅人君に言わせれば、その程度で、ブルジユアというのは大袈裟だといつていまして、それについても私は同感いたしました。

 レオさんか社長だったころの年収にプラスアルファぐらいなものですが、以前、私自身の貯金は2000万円以上ありましたが、父親にそう言われて、会社に大部分投資してしまったので、なん百かわからないけど、数百万ぐらいしか自分の貯金はないと思う。

 私は正確にはパラサイトシングルではないけど、まあ、戸田君に根性なしとい言われるそういう対象だと思う。

 両親が長生きして、父は数年前他界していますが、ほとんど年金を貯めた金らしいけど、父もずっと生きている間は現役で働いていたから、億という単位があつたらしい。

 そいで、離婚するわけではないけど、しかし、どうも離婚もできないみたい。出来たらまた話させてもらいたいですけど、私は自分の意思で結婚したのかどうかわからない。三十分一万円の霊能者に診て貰ったら、荼枳尼天に操られたらしい。結論的にはモナと分かれて、生長の家の人と結婚すれば運命が好転するというようなことだったけど、それは親や兄弟が望んでいることでもあるけど、どうも、そうにもならないみたい。話が途中まではその霊能者の言う通り進んだけど、・・つい最近またその先生の合いにいつて、先生どうも先生の言うようには話が進まないように思うのですが、どうしたらいいでしょうかと聞いたら、私に、新しい宗教を起こせとかいわれました。私はどう思ったかというと、出口わにさぶろうなんかが私に乗り移ればできるかもしれんと思いました。

 私はモナと離婚しないと、親の財産はもらえないと遺言状で書かれているそうです。

 離婚しようとおもうのは、それが理由ではないですが、結婚しているけど、実際の生活して、子供が出来てなんて、もう歳た、体が全然健康にならないから、やっていく自信がないから、12月から給料はもらってないしで、

 今、自分でいつでも使えるお金は50万円くらいあります。母親はお金がなくなったら、いつでも言うようにともいわれています。

 半さんみたいに本が買えないわけではない。しかし、以前みたいに、アマゾンの本が大量に郵送されてくると、母親に無駄遣いしているとの非難をうけるので、郵送先を豊川市の友人先にしてあります。 彼は、私が、豊橋道場での生長の家の集まりに誘っていますが、彼は、霊魂とかの存在を否定しているラ・エリア・ムーブメントの会員です。

 彼はまあ、パラサイトシングルだなあ。・・30代のときに、仕事が営業の外回りになって体を壊して退職してそれきりだそうです。彼も今は私と同じ母子家庭だなあ。少し畑をもっているから、年老いたおかあさんと畑仕事とかは少ししているとおもうけど。

 私のテーマは犬、また「小さい」という壮大なテーマ、あわせて小さい犬でもあります。

 私が、犬の今井君とあだ名をつけた人、黒崎カント本と一緒に買った。

 本のカバーの写真をりー君させてもらいます。
 わたしより二つぐらい年下なだけだから、今はもう50になっているとおもうけど、生涯を犬猫に捧げている人ですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~TF2Y-KWI/imai.html
http://www.coara.or.jp/~oak/
http://www.amazon.co.jp/%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%82%92%E3%81%99%E3%81%8F%E3%81%88-%E2%80%95%E9%9B%B2%E4%BB%99%E3%83%BB%E6%99%AE%E8%B3%A2%E5%B2%B3%E3%81%A7%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2-PHP%E6%84%9B%E3%81%A8%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E6%A3%AE%E4%B8%8B-%E7%A0%94/dp/4569589340

 私は、こうやって書かせてもらつているし。それは宣伝にもなるとおもうけど、一応年会費、一万2000円を払っています。


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今日で休みは終わりですけど  投稿者:nelu(かわふくG)  投稿日:2009年 5月 5日(火)09時20分34秒
    4月29日から今日までお休みでした。
 2日に、生長の家の行事に出るために東京にいきましたが、それ以外はずっと布団で寝ています。半さんがりー君してくれた。名古屋の勉強会は出席していません。今度の教化部長先生、木場廣一だったか一廣だったか・・・調べればわかるんだけど、・・まあとにかく、随分優秀な先生だと思いました。

 もう亡くなられていますが、わたしが入信?したころの愛知県の教化部長先生は岡田淳という方でして、両手が手首から先がありませんでした。その先生を直接知らない前から、その話を聞いていましたが、ずっと後になって、両手首から先、手がないだけじゃなくて、片目も義眼だということを知りました。小さいときに、花火の火薬をガラスビンに入れて、爆発して、そうなってしまったそうです。

 生長の家は明くるしなさいというわけで、岡田淳先生も、明くるくしなさいといいますが、先生はやっぱりちょっと暗かったです。

レオさんが
>>
つまり君の仮定は、夜に太陽が出ていれば明るかった筈だ、との仮定と同じように成り立たない仮定なのだ。太陽が出ていれば、それは昼だからね。
<>

 こういうこと言っていますが、唯物論対観念論の比喩にもなると思うけど、昼と夜を同時に経験することは、常識的にはというか、普通には出来ないと思います。

 昼のことを本当に知ろうと思えば、夜のことはわからなくなってしまう。また逆も、だから両方とも知ろうと思えば、薄暗い世界か薄明るい世界を体験するしかないわけです。

 今、「薄明るい」という言葉を使いましたが、情報収集能力が乏しいので、なんとも言えませんが、「薄暗い」という表現はつかっても「薄明るい」という言葉を使うことはほとんどないように思います。しかし、言葉は本来的にはニュートラルだとおもうんだけど、どちらか偏った意味にしかつかわれないことが多いし、時代とまた、場所的な変位とかによって、意味が逆転したりすることがあるように思えます。

 義人とか人徳というのは、正義の人であり、正徳の人をあらわすけど、義というのは本来はっていえるかどうかわからないけど、正義も悪義(atokには流石に入ってない)もあるし、徳も正徳も悪徳もあるはずだけど・・・・

 疲れたのでやめる。

今、死語の世界、いや、死後の世界の体験記 魂の幽霊界行脚・・を読んでいる。
 

neluさん

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年 5月 8日(金)23時10分29秒
返信・引用
  ネルさんは、どこかにお出かけする予定とかあるんですか。  

nelu

 投稿者:nelu  投稿日:2009年 5月 8日(金)23時08分12秒
返信・引用
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arigato!  投稿者:nelu(かわふくG)  投稿日:2009年 5月 4日(月)23時30分38秒
   生長の家の月刊の普及誌がいままで四部ありましたが、来年の四月から三部になって、青年誌が今までの「理想世界」から、ローマ字の「arigato!」になります。

 昔は英語を話す人は「アリゲター」で覚えないといけなかつたけど、「どもありがとう ミスターロボット」という歌がおそらく世界中で広まっているから、世界の人が発音をよく習得しているとも思います。


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re:題は「ええと」=8 としやう  投稿者:nelu(かわふくG)  投稿日:2009年 5月 4日(月)23時17分6秒
   今日、ニュースでワニとトカゲが捨てられてたというのがありましたが

 誰でも知っているような話だとおもうけど、アメリカ人は「ありがとう」という発音覚えにくいので、あのワニの「アリゲター」つて言えというのがありますね。


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黒崎カント本のことから、翻訳云々の問題ということと、招き猫さんに「現象」について問われたことと ・・・について<1>  投稿者:nelu(かわふくG)  投稿日:2009年 5月 4日(月)23時11分5秒
   昨日、これらに答えるために最低読まなくてはと思って、また、柄谷さんの「言葉と悲劇」の中の「「理」の批判――日本思想におけるプレモダンとポストモダン」を二回ぐらい読み直して、それから、これも何度も取り上げている「廣松渉さんの小阪修平さんの対談形式の「歴史的実践の構想力」」・・・「構想力」と言えば、黒崎カント本で、p143 「カントの不安」という小見出しのところで、ハイデッガーの『カントと形而上学の問題』という本で「『純粋理性批判』第一版(一七八一)の基礎づけにおいて、いわば一瞬の間だけ開かれた<超越論的構想力>への見通しは(第二版〔一七八七〕において)再び覆いかくされるこことなった。」とあるわけですけど。・・・・ずっと、また最初から、廣松さんと小阪さんのこの対談本をずっと、また最初から読んでいきますと、取りあえず一番短く引用すると、p65で廣松さんは「僕は一種独得のフェノメナリスティクな立場、事的世界観にたっているつもりです。」っていっています。「構想力」という言葉と「事的世界観」という言葉の内容が非常に近いものだろうということ、それから「フェノメナリスティク」というのは恐らく「現象論的」と訳せばいいのだらうちょっとだけ指摘しておいて、まず、「「理」の批判――日本思想におけるプレモダンとポストモダン」のことを先に取り上げよう。

 ああっ、これを<1>として取りあえずアップしやう。
 

題は「ええと」=8 としやう

 投稿者:レオ  投稿日:2009年 5月 8日(金)23時00分42秒
返信・引用
  昔、ロンドンまでの切符を買おうと「ツー、ロンドン、プリーズ」と言ったら、切符が2枚来て
違う違う1枚だと、「フォー、ロンドン、プリーズ」と言ったら、4枚来て
困ってしまって「ええと・・・」とつぶやいたら、8枚来た
本当か、ジョークか見間違う話であった

もう一題、
ウエストミンスター寺院に行くときに「上杉謙信と覚えろ!」と言われて
タクシーに乗った瞬間に「タケダシンゲン・プリーズ」と言って
向こうも、こっちも困った
これも真実かな???
 

Re:わざと矛盾

 投稿者:まっぺん  投稿日:2009年 5月 8日(金)22時59分12秒
返信・引用
  うん。そうかもしれませんね。(^◇^) しかし言い訳がましいので、ついツッコミを入れたくなる。
まぁ、ローマ帝国やマキアベリと比べれば内容的にはどーでもいいような事なんですけど。
 

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